ブラウン管的同一化

ヒトは「鏡像段階」を経て人間になる。

フロイト派精神分析として有名なジャック・ラカンは、かつてこう唱えた。鏡像段階とは、生後6ヶ月から18ヶ月くらいの幼児が、鏡に映し出される姿に関心を抱き、やがてそれが自分だと認識する時期のことだ。この論は「同一化」という言葉を借りて「自我」に行き着く。

鏡の前で母親に抱きかかえられながら「ほら、かわいいねぇ」などと言われている。最初のうちはそれが「自分自身」だとは分からない。が、そのうちに分かる時期がやってくる。なぁんだ、目の前のコイツはオレだったんだな、と。これがいわゆる「同一化」である。

興味深いのはその先のステップ、第二次同一化である。第一次では、鏡に映った自分によって同一化を求めた。第二次では「他者」によって同一化を求めるようになる。

いわゆる「象徴界」と呼ばれる社会的・文化的ネットワークへの参入である。赤ん坊が産まれる前から存在しているところの、だ。そうして他者を認識し、他者に憧れ、他者になりたいと願うようになる。皆さんにも心当たりがおありだろう。というか、鏡像段階を経た人間は、ずっとその象徴界にいるわけだが。

ここでふと思った。ラカンの時代にはテレビがなかったじゃないか、と。

赤ん坊が第二次同一化を迎えようとするとき、ここで認識する世界には象徴界だけでなく、ブラウン管に映る「仮想の世界」も含まれている。いや、ひょっとしたらその前の時点、鏡に映る自分の姿よりも先に、ブラウン管に映る「存在しない他者」に関心を抱き、ある種の認識がなされることもあるだろう。

ここまでまた、ふと思った。僕の生家には、幼き日の自分の姿を映し出すような大きな鏡があっただろうか? いや、十中八九そんな鏡はなかったはずである。そして僕は、生まれたての頃から親と一緒にテレビを観ていた。

そのことは、現在の僕の人格に関係があったりするのだろうか。関係があるとして、では、「このせいで」なのか「このおかげで」なのか。

それは分からない。僕自身ではなく「他者」が判断することだから。

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