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世間でよく言われるところの「3大欲求」とはもちろん、食欲と性欲と睡眠欲のことだが、これとは別に、「人間の持つ5つの欲求」というのがあるというのを昔、何かの本で読んだ。しかしながら、詳しいことはずっと思い出せないでいた。それが今日、某所でそのものずばりの説が引用されていて、ようやく胸のつっかえが取れたわけである。

アメリカの心理学者であるアブラハム・マズローが唱えた「自己実現理論」は、人間の欲求を5段階の階層で理論化したものである。いわく、人間には「生理的欲求」「安全の欲求」「所属愛の欲求」「自尊の欲求」「自己実現の欲求」があり、低次の「生理的欲求」からこの順番にピラミッドのような構造を持っている。下位の欲求が満たされれば、そこで初めて上位の階層へと移行するという考えである。

なるほど、これはまさに当を得たりといった理論だ。前述した食欲、性欲、睡眠欲は「生理的欲求」の範疇であり、人間が何はなくとも最初に欲するものである。そして、生理的欲求が満たされると今度は身の回りの安全を求めるようになる。衣食足りて礼節を知るとはよく言ったもので……って、ちょっと違うか。まぁ、たとえ生理的欲求が十分に満たされていたとしても、死んでしまっては元も子もないからね。続く「所属愛の欲求」というのがもしかしたらピンとこないかもしれないが、これは要するに他者とかかわりたいという「集団帰属欲」である。流行に左右されやすかったり、ついつい出会い系にハマったりするのも、根源的に所属愛を求めているからにほかならない。で、何らかの集団に帰属できた後は、その集団から価値のある人間だと認められたがったり、尊敬されることを求めるようになる。これが「自尊の欲求」。いろいろと思い当たる節、あるでしょ?

ここまでの4段階のことをまとめて「欠乏欲求」と呼ぶそうだが、これらとは別に「成長欲求」と定義付けされているのが最高次にある「自己実現の欲求」だ。これは、自分の可能性をさらに引き出したい、自己を成長させたいと思う欲求のこと。実際には、欲求がこの域にまで達する人は少ないと思いますが。

あ、オチとかはありませんよ。あくまでも備忘録的なものなんで。

優しくする。優しくしてあげる。優しい気持ちで接する。

2日前の出来事だが、ふと思い出したので書いてみる。

その日、僕は東雲のスーパーオートバックスにいた。すると、目の前から警官に両脇を抱えられながら、年の頃なら30歳ぐらいの青年が、僕がいた売り場のほうにやってきた。青年を抱えているのとは別の警官はインスタントカメラを持っている。すぐにピンときた。万引き犯を連れての現場検証である。

青年は周りの人と目が合わないよう首を横に振ってみたり、少ししか自由にならない手で顔を隠してみたりしている。僕の隣でショッピング中の若いカップルは、それぞれ「かわいそうに」「自業自得だよ」みたいなことを言っていた。5分ぐらいの出来事だったと思うが、件の青年にとってはずいぶん長い時間だと感じただろう。

公衆の面前での現場検証の目的が「見せしめ」なら、それほど混み合っていない店内の当該売り場付近で「それ」に気付いた人だけに効力がある見せしめである。本人にお灸をすえる意味ではそれなりに効果があったのかもしれないが、彼が今後そういった行為を慎むようになるかどうかは、残念ながら僕には確かめようがない。

罰をもって犯罪行為を抑止しようとする、その考え方を否定するつもりはない。しかしながら、およそ世の中で犯される罪とそれに対して与えられる罰との関係性は「罰を避けるために罪を慎む」という図式になってしまっている。交通取り締まりなどはまさに「罪を慎んでもらうために罰を与える」という方法論にほかならない。

贖罪の本来の目的は「罪を罪と認識させ、それを繰り返すまいと思わせること」であるはずだ。ちなみに辞書で贖罪を引くと、「人々の罪をあがない、人類を救うために、イエス-キリストが十字架にかかったとする教義」とある一方、「刑罰を免れること」という語釈もあった。誰でも罰は免れたいだろうが、罰を免れることや罰を受けないことが目的となってしまうのは本末転倒だと思うのだ。

そのとき僕は、ハンズフリーフォンの売り場にいた。で、さんざん悩んだ末に低価格帯のイヤホンマイクタイプを購入。なぜ買ったかと訊かれれば、こう答えるだろう。捕まりたくないから、とね。

フランクフルト学派第二世代のドイツの哲学者で、『コミュニケーション的行為の理論』という著書のあるユルゲン・ハーバーマス。彼は、コミュニケーションとは「合意を目指すプロセス」であると言った。コミュニケーションという言葉の意味は本来、単なる「情報の伝達」だが、そこに合意を求めるプロセスが介在することで真のコミュニケーションたりえるわけだ。

合意事項の背後には、合意を成り立たせるための条件がある。理解可能性、真理性、規範的正当性、誠実性の4つ。順に、「話し手が聞き手に理解できる言葉を用いているか?」「話される事柄について、正しいことを言っているか?」「社会的規範に照らし合わせてみて、話の内容が適切であると言えるか?」「嘘偽りなく言い表しているか?」という意味の言葉だ。

さて、自分の胸に手を当てて考えてみよう。普段からこれら4つの条件を満たすコミュニケーションがとれているだろうか? 思うに、飲みの席では規範的正当性が損なわれがちである。ついでに言えば、僕自身は理解可能性が損なわれがちかもしれない。

ちなみに、この4つの先にあるもうひとつの条件が一番大切だったりする。というか、ハーバーマス言うところの「合意を目指す」のに一番大事なこと。それは何あろう、「脱自己中心性」である。興味深いので、資料からそのまま引用しよう。

信頼関係を築く際、相手に信頼されることを望むが、そのためには“わたし”が相手から信頼されるに足る人物にならなければならない。“相手の信用に値するわたし”になることで、脱自己中心性を得られることになる。

ふむ。新世紀はこれを肝に銘じて生きていくことにしよう。

ヒトは「鏡像段階」を経て人間になる。

フロイト派精神分析として有名なジャック・ラカンは、かつてこう唱えた。鏡像段階とは、生後6ヶ月から18ヶ月くらいの幼児が、鏡に映し出される姿に関心を抱き、やがてそれが自分だと認識する時期のことだ。この論は「同一化」という言葉を借りて「自我」に行き着く。

鏡の前で母親に抱きかかえられながら「ほら、かわいいねぇ」などと言われている。最初のうちはそれが「自分自身」だとは分からない。が、そのうちに分かる時期がやってくる。なぁんだ、目の前のコイツはオレだったんだな、と。これがいわゆる「同一化」である。

興味深いのはその先のステップ、第二次同一化である。第一次では、鏡に映った自分によって同一化を求めた。第二次では「他者」によって同一化を求めるようになる。

いわゆる「象徴界」と呼ばれる社会的・文化的ネットワークへの参入である。赤ん坊が産まれる前から存在しているところの、だ。そうして他者を認識し、他者に憧れ、他者になりたいと願うようになる。皆さんにも心当たりがおありだろう。というか、鏡像段階を経た人間は、ずっとその象徴界にいるわけだが。

ここでふと思った。ラカンの時代にはテレビがなかったじゃないか、と。

赤ん坊が第二次同一化を迎えようとするとき、ここで認識する世界には象徴界だけでなく、ブラウン管に映る「仮想の世界」も含まれている。いや、ひょっとしたらその前の時点、鏡に映る自分の姿よりも先に、ブラウン管に映る「存在しない他者」に関心を抱き、ある種の認識がなされることもあるだろう。

ここまでまた、ふと思った。僕の生家には、幼き日の自分の姿を映し出すような大きな鏡があっただろうか? いや、十中八九そんな鏡はなかったはずである。そして僕は、生まれたての頃から親と一緒にテレビを観ていた。

そのことは、現在の僕の人格に関係があったりするのだろうか。関係があるとして、では、「このせいで」なのか「このおかげで」なのか。

それは分からない。僕自身ではなく「他者」が判断することだから。

五山送り火を見た人は、目を患わないと言い伝えられております。

京阪交通の観光バスNS32の担当ガイド、宮本理恵さんはそう言った。すでに視力が0.1以下の僕も、急によくなったりするんだろうか。いや、視力低下は「目を患う」の対象外なのかもしれない。それとも、視力が悪くなる前に送り火を見るべきだったのか。いずれにしても、ちゃんと見たのは今年が初めてである。

しかしまぁ、「縁起がいい物を見る → 目に福が訪れる」とは短絡的で面白い。ただ「言い伝え」とことわるだけで、根拠など必要ないのも楽でいい。霊柩車を見たとき親指を隠さないと親の死に目に会えないとか、そういう類。

風呂上がり直前、タオルを絞った後に水を切る際、どうしても2回になる。昔、祖母に「1回だと縁起が悪い」と教えられたからである。訊けば、勢いよく振ってタオルの水を切る際の音が、首をはねる音に似ているから。でもどうして2回ならいいんだろうと、実家の風呂に入ってあらためて感じた。

商業広告の世界では違反となる表現も、言い伝えであれば許されるようだ。たとえば清涼飲料水の広告で「体にいい」と具体的効果を謳うことはできない。が、世の中には確信性もないのに効果・効能が堂々と謳える「商品」が存在する。

お守り、である。

またもや帰省時の話になるが、トイレにお守りがいくつか飾られていた。その中に「地震よけ」というのが含まれていた。これの効果がてきめんであれば、一定範囲の地域に1つだけで済むのではないか。何百円かをケチって買わなかった人には震災が訪れるのであろうか。その場合、隣の家が買っていれば、そこだけは助かったりするのだろうか。いや、震災被害を免れるとかではなく、堂々と地震を「よける」と謳っている。

かつての阪神地域や、伊豆諸島に住む人々の中でこれを買った人はいないのだろうか。

友人(女性)からもらったメールに、こんな言い回しがあった。引用文は多分に赤裸々な表現ではあるが、本人は割と普通である(為念)。

だから私達もああ、エロしたいなあと思ったら相手の首や股間にまとわりついて泣いてみましょう。きっと野生に戻れるよ!

これは果たして、野生への回帰と言えるのだろうか?

フェミニズムとはセクシャリティ(性的欲望)の解放であると同時に、フロイトがかつて唱えた「女性の快楽はその受動性にある」という説への抵抗である。とはいえ、受動性を否定することイコール能動性というわけではなかろう。

人間とは合意を求める動物であり、それにより倫理を形成している。カントのいう「普遍的に妥当する格率」である。いわく「自分の人格や人間性だけではなく、他者の人格や人間性を、単に手段としてではなく、同時に目的として扱いながら、行為せよ」と。性行為にも当然、普遍的に妥当する格率が存在している。

ハーバーマスの唱えた「発話行為」論からすれば、言語ではなくボディランゲージによって意思伝達をはかろうとする行為自体は、近代的ではないかもしれない。が、前述の「単なる手段ではなく、同時に目的として扱う」という格率が含まれている以上、多分に人間的であり文化的であり近代的であると思う。

要するに、だ。無理矢理やっちゃわない限り、あぁ人間なんだなと思うわけですよ。

アガペー(agape)という言葉がある。本来は「神の愛」の意味だが、哲学的には「献身的な愛」を指す。献身的な愛とはつまり、無償の愛である。

アガペーの反語はエロスである。言葉の持つニュアンスは本来の意味とかけ離れてしまっているが、本来は「見返りを求める愛」を指す言葉だ。

これを誰かに話すと、大抵、以下のような感想が聞ける。

アガペーには憧れるが、自分はエロスの域を脱することができない。エロスである自分を恥じているというか、どこか後ろめたさがある。エロスではあるが、求めている見返りは物品ではない。

僕はいつも思う。エロスを恥じることなかれ。そして、見返りは別に物質的なものに限らない、と。

切ない想いを胸の内に秘め続けることができなくて、矢も立てもいられず相手に告白した女の子の姿は、図式的にはエロスっぽくないが、これは十分にエロスである。精神的な満足、充足、安定を求めたからこそ、自分の思いを言葉にしたのだ。というか、本来のエロスとはこういうことなのだと思う。

冒頭で、アガペーは「神の愛」だと書いた。神が我々人間(を含む生物)に与えたもうた愛は、無償であり献身的だということか。僕は無神論者だが、敬虔な信者がこう考える気持ちは分からなくもない。

精神的な見返りさえ求めないからこそ、時に残酷なのではないかと。

蛇足だが、エロスの語源はアフロディーテの息子の名前である(アフロディーテが何の神だったかはド忘れした)。ギリシャ神話だとエロスだが、ローマ神話だとキューピッド(こっちはビーナスの息子だったと記憶している)となる。見返りを求める愛と「恋愛成就の神様」が同義なのが、いとおかし。

人は「分相応な生活をしよう」という言い方をよくする。では、分相応とはどういう状態を言うのであろうか。ある人は「そんなの簡単だよ。収入に見合った生活のことさ」と言うだろう。収入と支出のバランスが釣り合えば、分相応と言えるのか。逆に、分相応な生活を送れば、収入と支出のバランスが保てるのか。

それはある意味、間違っている。ある程度の文化的生活を営もうと願えば、当然の事ながらお金がかかる。文化的生活を営むことで満たされる満足度をAとしよう。そして、そのために必要な収入に対する労働量(=負の満足度)をBとしよう。おそらくそこには「A<B」という図式が成り立つ。

なんだ、エントロピー増大の法則と同じじゃないか。ある断熱系において何らかの状態変化があった場合、系全体のエントロピーの値は、その状態変化が可逆ならば不変であり、不可逆であれば必ず増大する。 人間の欲が不可逆というよりもむしろ、日常生活が閉鎖系ではないのだから。

たとえ誰かが平穏や静寂、不変を求めたところで、世界は動的に変化している。時間軸で移ろうからこそ世の中であり、また、ほとんどの人は変化を求めてやまない。

地球全体をひとつの「系」とするなら、間違いなく状態変化は不可逆である。エントロピーはしばしば「乱雑さ」と表現される。地球上からその乱雑さを減らそうとすると、担当者のエントロピーは増大する。もちろん、減少した分以上に、である。そのエントロピーの増大を元に戻そうとしても、今度は熱源のそれが増大する。強引に結論づけるなら、それは地球資源の不可逆的消費に相当する。

つまり人間である限り、誰もエコロジーを唱える資格はないのである。

ずっと寝なくても恒常性が保てる体が欲しい。オーバーワークという概念をはねつける肉体が欲しい。現実逃避したりしない堅牢な精神力も欲しい。

でもマシーンになりたいわけではない。自分自身をしっかり認識し、自分の役割を全うしてこそ得られる資格もある。「他人を愛する資格」もそうだが、その前に「自分を愛する資格」がある。

肉体は正直だが、精神は多分に天の邪鬼である。

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